物事は、よく考えてはいけないんですよね・・。
しかし、学校教育に慣らされると、頭でっかちでよく考えてしまいます。
論理的に考える・・とかね。一見良さそうに思えますが、
ガチガチになってしまうのです。
物事をよく考えてはいけない理由とは?
よく考えてみます・・・という言葉をよく聞きます。
これは、よく考えているのではなく、大概は、保留にしているのですね・・。
どうしようかな・・決断しようかな・・など、保留にしているものです。
検討をしている、なんとなくどっちしようか、運命を待っている状態ですね。
そして、自分に何となく焦点が合ってくると、決めるものなのです。
この決定までの過程はいいと思いますね。
しかし、反対に、論理的に考えすぎる場合、みんなのレビューを検討しすぎたり、
多数決の意見を聞いたり、世間の評価を聞いたりしていると、
周りの情報ばかり集めて、結局、自分はどうなの?ということになるのです。
考えすぎ、検討しすぎ、人の声を聞きすぎなのです。
人の声を聞く人は、二流である・・とも言われます。
自分の声を聞く人が、一流だと言われるのです。
たぶん、学校教育重視だと、人の声を聞くようになってしまうのです。
慣らされていきますからね・・。
思いついたことを大切に。気づきが重要。
自分にとって大事なことは、本にも書いていないし、
誰かが教えてくれたりもしないものです。
思いついたこと、気づいたことが重要なのです。
気づくこと・・・これがかなり重要だと思っています。
認知神経科学の文脈での「気づき」は英語のawarenssの訳として用いられ、外界の感覚刺激の存在や変化などに気づくこと、あるいは気づいている状態のことを指す。「気づき」awarenessという語は「意識」consciousnessという語としばしば同義に用いられることがあるが、「気づき」という語は意識のうち、現象的な側面ではなくて心理学的側面、つまり行動を説明づける基盤としての心的概念としての意識を強調するために用いられる。
心の哲学の研究者であるデイヴィッド・J・チャーマーズ[1]によれば「気づき」とは、「言葉による報告を含む、行動の意図的なコントロールのために、ある情報に直接的にアクセスできる状態」(訳書p.281より改変)のことを指す。気づきの対象は外界だけではなく、自分の体の状態や、自分の心的状態であることもある。この定義に基づけば、気づきには言語報告は必須ではないため、人間以外の動物にも気づきはあり得る。
以上のような「何らかの対象に気づいている」(be aware of)という意味での気づきとはべつに、覚醒状態としての気づき(be aware)とがある。状態としての「気づき」は、意識障害の診断における、昏睡、植物状態、最小意識状態、覚醒状態の区別をするための指標[2]で定義される。こちらの用法の場合には「気づき」と「意識」とは区別せずに用いられている。